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NPO法人和田地域づくり協議会『WA・O!』主催 寺子屋講座へ参加しました<前編> [この町を知ろう! ~安房、ちょっとお勉強~]

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6月19日(木) NPO法人和田地域づくり協議会『WA・O!』主催 寺子屋講座へ参加しました<前編>

講座の概要については6月5日(木)の記事をご参照ください。

6月15日(日)に参加した寺子屋講座で学んだこととその感想をまとめます。2回に分けて記事にいたします。

【盛況でした】
会場の「和田地域センター3階市民ホール」には初めて入りました。
パイプ椅子がおよそ80脚並べられていましたが、まだまだ入るのではないでしょうか。100人以上余裕で入りそうです。
また大きな窓からの眺めがすばらしかったです。
講座への参加者は50名を超えていたと思います。なかなかの盛況で、ご近所さんのお顔も見られました(そりゃそうか!)。これも田舎のよいところでしょうか。

【この日のテーマ】
さて、講座は成城大学文芸学部の小島孝夫教授の司会進行の下、5名の学生達が次のテーマで発表しました。
1.ジミョウから見た和田のくらし
2.家業から見た和田のくらし
3.葬式組の変化から考える和田のくらし
4.婚姻から見た和田のくらし
5.捕鯨からみた和田のくらし

【なぜに和田?】
この講座のことをお聞きしたとき、まず思ったのが「なぜに和田?」ということでした。
小島先生からのご挨拶を聞いて謎が氷解しました。小島先生はかつて「千葉県立安房博物館」にお勤めしていらっしゃったそうです。またネットで簡単に調べましたら、ご専門が日本民俗学で、特に漁撈習俗が主な専攻対象であるとのこと。納得!

ところでこれも今、調べて驚きました。「千葉県立安房博物館」通称「あわはく」は平成21年に閉館されていました。その後、平成23年に「館山市立博物館分館」として開館しているとのことです。行かなきゃ。
「あわはく」は私も子ども時代、学生時代に何回か訪ねました。しばらく離れていた間にそんなことになっていたのですね。

【小島先生の談話(最初のご挨拶)より】
「民俗学は、人ひとりひとりの生き方から学ぶことが一番大切な資料になる。研究のための研究にならないようにしていきたい」というお言葉が印象的でした。
また発表の中で言葉がカタカナ表記で記されることがあるが、これは民俗学では言葉そのものが標本となるという考え方があり、漢字をあてると特定の意味がもたれてしまう可能性があるためにあえてカタカナで表記するという手法なのでご理解を、という説明がありました。今回の発表の中ではおそらく「ジミョウ」や「ジュウロクニチネンブツ」などがそれにあたるのでしょうですね。

【テーマ別発表(要約)】
1.ジミョウから見た和田のくらし
和田町には冠婚葬祭などの祝儀、不祝儀などを取り仕切る互助関係として「ジミョウ」と呼ばれる関係があった。全国にも類似の互助関係がみられるが、ジミョウのような多様で柔軟な関係性はめずらしい。
血縁関係がある訳ではない数件の家同士でジミョウになっている、和田町に引っ越してきた家がもともと和田町にあった家に依頼してジミョウになった、本家と分家の中から数件ずつジミョウの関係を作っている、などいくつかのパターンがみられる。基本的にはジミョウの縁を切らないかぎり関係は続いていくが、引っ越しなどで自然消滅することもあれば、酒やお菓子などを持って挨拶した上で縁を切る場合もある。
約30年前に葬儀業者がこの地に創設されてから、ジミョウに変化がみられるようになった。ジミョウが担っていた不祝儀の役割が徐々に業者に任されるようになり、ジミョウが果たす役割がなくなってきた。高齢化や過疎化の影響もあり、その流れに対しては反発もないようである。

2.家業から見た和田のくらし
家業とは家単位で行われる生計を立てる術であり、家族で行う商売である。日本全体で家業経営をしている家は少なくなっている。和田町の花農家を調査してみたらやはり高齢化、後継者不足の問題があった。家業は家単位で行われるが、同時に一つの家で完結するものではなく、他家との関わりを必要とする。現在、農家では機械化が進み、他家との協力の必要性は薄れている。ただ農家同士の情報交換、共同作業などは現在でも必要であり、続けられている。
家業を継がずに企業に勤める人が増えているが、家業を継がなくとも地域とのつながりを断たずに交流を続けていくこともできる。おそらくそれは意義のあることではないだろうか。

3.葬式組の変化から考える和田のくらし
葬式組とはジミョウとは別で、今では消滅してしまった集まり。
和田町和田では(お)葬式組、講仲間、念仏仲間と呼ばれ、隣接していない16軒前後で構成し、月に一度集まって念仏の練習をしていた。練習は毎月16日ごろに行われるので「ジュウロクニチネンブツ」と言う。15年ほど前は6~7人参加すると多い方だったが、それ以前はより多くの人が参加していた。また葬式では故人の死装束を準備、葬列での鳴り物の担当、僧侶が念仏を唱えるのとは別に念仏の唱和などをしていた。
和田町真浦では講仲間と呼ばれ、10~15軒で構成し、葬儀での役割として、葬列への参加、土葬時の穴掘りなどを担当した。

葬式組の活動の変化の理由は二つあり、一つは葬式そのものが業者に委託される部分が増えていったこと、もう一つは自営で仕事をする人が減り、会社勤めをする人が増えたためにジュウロクニチネンブツへの参加などが難しくなったことである。こうしたことから4、5年前に話し合いの末、地域内の葬式組は解散したとされている。
葬式組の活動の変化は地域内の産業構造の変化、葬送儀礼の商業化が和田の暮らしを断片的に都市化させていることの表れである。これによって地域内のコミュニケーションの場が減ったことは確実であり、かつて葬式組が地域の互助組織としての役割の他に、地域住民の交流の場であったことを再確認する必要がある。
<後編へ続く>

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